◎ 三代金光様の生霊、死霊のお話。 神様がえこひいきしござる位のおかげ。 一視同仁。。
昭和四十四年六月六日 朝の御理解
X御理解第九十四節 「信者に不同の扱いをすな。物を余計に持って来ると、それを大切 にするような事ではならぬ。信心の篤いのが真の信者じゃ。」
神様のこころを心として、天地の親神様の、例えば心を心として、ところが、天地の親神様の眼からご覧になれば、いわば、一視同仁である。みんな神様の氏子としての見方をして下さる。けれども信心をさせて頂く、それを教祖様は特別に信者氏子と呼びかけて下さる。やはり、そこには天地の親神様とても、いわば、不同の扱いをしておられるという感じが致しますですね。
信心があろうが無かろうが、天地の親神様は一視同仁である。みんなおんなじだ。けれども信心をさせて頂いておる氏子を信者氏子と呼び名まで違う。書いておられる。そして、信者氏子はどういうことになっておるかというと、やはり、信心の無い者では味わえない、信心の無い者では頂けないおかげをお渡しになっておられますですね。そこんところをひとつ分からして頂くと。私この御理解は生きてくると思うんですね。最後に信心の篤いのが真の信者じゃとこうおっしゃっておられます。同じ信者の中でもです、信心の篤いのが真の信者じゃと。そうすると、結局、真の信者じゃというものが、おかげを余計に頂くことは間違いない。いわゆる、お徳を受けていくのである。
これは例えば、取次者、その人も人間ですから、やはり、好き嫌いの無いはずはない。自分の気分に合うた者もありゃ、合わん者もあるに違いはない。物を余計に持って来ると、それを大事にするというようなことではならんと、こうおっしゃる。けれども、やはり物を余計に持ってくりゃあ、それだけ接近してくる訳です。よんどころなしに、やはり、不同の扱いのようになってくる訳である。信心の篤いのが真の信者じゃと。その信心の篤い、真の信者としての、ひとつの過程というか、その前提というか、そこにはやはり繁々と、ここでいうなら取次者に接近し、取次者の心に添うていく。
甘木の平田さんが言われるように、親先生親先生と、一丁の豆腐が出来ても親先生には持って行ったか。そういう生き方。これはおいしい。これは自分が一人で頂くのは勿体ない、早いとこ親先生に持って行け。というて、その持たしたと、こう言われる。それで、結果においてどういうことになっておるかというと、同じ甘木の信者もたくさんありましょうけれども、とりわけず抜けてああいう大きなおかげを受けられたことだけは事実ですね。いわゆる甘木の親先生はいうなら不同の扱いをしなさったということになるだろうか。それでも・・・。たくさんあれだけ信者のある中で、平田さんばっかりに、おかげのお取次をなさったと。これは同じ私の子供でもそうです。七人なら七人の子供が私におりますが、いわゆる、やはり成る程私の子供ということに於いては一視同仁なのである。けれどもそれぞれの、いわば生き方というか、おかげの受け方はそれぞれに違うのである。
昨日、朝の御祈念を頂かれて帰られてから、しばらくして久留米の佐田さんから電話がかかってきた。帰らして頂きましてから、御神前に出て、おばあちゃんと一緒にお礼を申させて頂いとりましたら、こういうお知らせを頂いたが、とにかく電話ででもいいからお伺いしなさいと、おばあちゃんがいわれますからお伺いしよります。というのである。
それが、御心眼に頂かれましたことが、たくさんの人が奇麗に日本髪を結うておられる。その後ろ姿を見せてもらう。ある人のことを一生懸命、うしろ祈念なさっておられますから、うしろ祈念しろということじゃろうか、というのである。そんならそんなにたくさんの人を見せて下さるはずもない。また、日本髪を結うておられるところを横から見せて頂いたというのである。
やはり、特に日本髪はうしろ姿というのはとてもいいですね。何とも姿がええ。格好がええ。だからそれは私が申しました。それはうしろ祈念。そういう意味じゃない。例えば、皆さん、朝の御祈念にこうしていっぱいのお参りしてみえる。その朝の御祈念に、そして、御理解をこのようにして頂くということ。あの人は好いとるけん、あの人によけい聞こえるごたると話そうと。あれは好かんけんあれにはあんまり聞こえんごとしようち。というようなことはない。いわゆる、一視同仁である。
私がこうしてお話させて頂いておるのは、みんなによう聞こえているのである。ですから、一応はです、お互いがみんななんとはなしに、あーそうどころじゃない、そうどころじゃないと、今日の御理解は有り難かったと。これはこちらも一視同仁に説いているのですから、皆さんもやはり、一視同仁にみんなに一様に、いわば受けておられる訳である。
それは、理解力を持った人もあれば、持たない人もあります。また、信心が浅い人もあれば、深い人もありますから、先生があー言よんなさるけれども、あーいう、その裏の裏まで聞き取って帰る人もあります。今日の御理解は難しくて分からなかったという場合もありましょう。けれども、御理解を頂いておる、お広前いっぱいにある有り難いというか、勿体ないというか、そういう雰囲気だけはみんな一様なのだ。だから、御理解が分かっても分からんでも、おかげだけはみんな受けられる訳です。一応はです、いわゆるかみです、かみは信心の信です。一応は奇麗に結い上げておるんだということです。ひとりひとり結い上げてもらっておる。うしろ姿から見ると、どれがどれか分からん位に奇麗に結い上げてあるということである。
横顔からなら、まあだ分からん位にあるというのである。ところがそんなら、それを廻れ右して正面から見たらです。それこそ、髪のほうが泣くちゅうごたるとがおる。もう、後ろから見たらこたえんじゃったばってん、前のほうから見たら、ゲッといおうごたるとがおる。
そうでしょうが、そこからです、やはり不同の扱いが始まる訳です。もう、天地の親神様でもそうなんです。ですからね、私は思うのに、それからのですね、やはり奇麗に結い上げてもらって帰った、その髪をですね、せめて一日くらいはもたせれる工夫がいると思うんです。そこにです、私は心の器量というのがはっきり区別がついてくると思うのです。
いわゆる、本心の玉を研く、日々の改まりが第一、とおっしゃる、その教えの中には研く事、改まる事が必ずお話になっておる。ですから、研くから改まるから奇麗になる。もちろん、心の器量が奇麗になる。奇麗なその心に結い上げられたその髪とが釣り合うて、前から見てもいい、後ろから見てもいいということになってくる。
三代金光様がお若い、お若いというか、そうですね、福岡の初代の吉木先生が40才代位の壮年教師の時代、壮年教師の入殿があった。全国から、そのときに、金光様が壮年教師に対してお話になっておられるのを、ガリ版刷りにして一部づつ皆さんがもらって帰られた。まあだお若い金光様が五、六十位のお頃でなかったろうかと思うのですが。そのころはやはりその御理解なさっとられ、お話をなさっとられますね。
それはいうならば、一般信者には聞かせられないと、いうようなあれがあったのでしょうか、それはもう極秘のようにしてそれぞれが、いわゆるガリ版ずりに、一般に公にされなかった。壮年教師の方たちだけが、それをもろうてみえられた。
それをどういうようなことであったかしらんが、福岡の吉木先生があるとき、私を呼び止めてから大坪さん、よかばの見せるからというてから、吉木先生から見せて頂いたことがある。私もびっくりしました。金光様にはこういう時代もおありになったかということを初めて知った。それなんかは他のまあ、一部の人達が知っておられるだけである。むしろそういうなことは、もう隠すようにして、そのあんまりそれを大事にしすぎたというか、みんなに知らない人が多いのです。
あれだけの大徳をお受けになられた金光様のことですから、もうそれこそ、大変な御神徳。または、御霊徳を持っておられ、または顕してあられた。いうなら見ぬき見どおしといったようなお徳を身につけておられた。その中にですね、霊徳面の事をお話になっておりました。その中に生霊、死霊を拝むということがある。金光様が生霊、死霊を拝んでおられる。生霊がついたとか、死霊がついたとかって申しますでしょう。あるとですよ。その金光様のお話の中にですね、あるときにある先生の生霊が御本部のお広前へやってみえられてですね、御本部にお供えをしちゃる。そのお供えのまわりをぐるぐるぐるぐるまわっておられるから、誰じゃろうかと思うてよくよく見ましたら、どこどこの先生でしたと、おっしゃっておられる。
ある時には、お賽銭箱の回りをぐるぐるぐるぐるまわっておられる先生がおられますから、よくよく見たらどこどこの先生の生霊でしたとおっしゃった。こういう先生の所では人が助かりません。とおっしゃったそうです。
金光様のごたるお徳を受ければ、ああいうお供えがどんどん集まってくる。御本部のお賽銭箱だけでん、たいしたこつじゃろうと、思うちから、そのことばかり考えよる先生じゃったというのである。うちあたりの教会でもお初穂こたらいらんけん、御本部のお賽銭だけでよかばってんかいいから、毎日、上がってくるごたるいう、そげんとがお賽銭箱の回りをぐるぐるぐるぐる回りよる。
私の周囲、この御結界の周囲をぐるぐる回って、そして、その私の着物に触れたり、袴に触れたりする生霊の先生がおられます。こういう人の所では、必ず御比礼が輝きます。とおっしゃったそうです。
金光様の、あのあふれるようなお徳というものは、どこから生まれてくるのだろうか。あの金光様の御神徳に触れたい。あの金光様の御神徳に触れたい。それこそ、お着物にでもお袴にでも触れさせて頂くということを有り難い。というような先生の所では、おかげが受けられます。いうならば、一念を燃やすというか、その心の魂。それがやはりです、おかげのところをぐるぐる回るようなことでは、おかげは受けられん。いうならば、金光様に接近する人であるならば、おかげが受けられる、というのである。
これは御信者でもそうですよ。出来るだけ先生には会おうごつなかという人がある。また、先生がどうか言う、何か御用をいいつけられるごたる気色がする。もうこっそりと抜け出らにゃ、先生が裏さへ行きなさったから、今のうち帰ろうという人がある。これではね、不同扱いをするまいと思うても、結局不同の扱いをした結果になる、おかげが・・・。
今日、私はこの九十四節、例えば、取次者に対するところの心がけといったようなことを説いてあると思うのですけれども、天地の親神様でもです、世界中の氏子を氏子として、一視同仁の見方をなさっておられるけれども、そんなら信心をする者、側に寄って来る者、接近をして来る者。これには、やはりです、頭のひとつも撫でてやりたいという気が起こるのは当たり前。
また、悪いことすりゃ、そんかわりこつんとやられることもあるけれども、だから、ここで逃れるとは、やっぱり心の中に、咎めるもんがあるんですよ。きっと。コツンとやられはせんじゃろうかと思いよる。だから、そばに寄り付ききらん。たたかれることでも覚悟して接近して来るというようにならにゃいけん。先生、先生というて好きなもんのひとつでも、そんなら、例えば平田さんんの例をとりましたが、豆腐一丁でも、そういう心がけの人を結果のうえに見てみますとです。甘木なら甘木のあれだけのたくさんの信者がある中に、それをしておる信者の方が、おかげを受けておるという事実がある。やはり、余計可愛いがられておるということである。
だから、今日はこれは、信者側の方から、もちろん私も含めてですけれども、信者側からこの九十四節を頂くと、今、私が申しましたようにです、なる訳です。
最後に信心の篤いのが真の信者じゃというておられるところなんかはね、とにかく接近して来る者には勝たん。本気で一生懸命、信心する者には勝たん。本気で信心頂こうとする者には勝たん。いわゆる真の信者じゃとおっしゃる。真の信者ということは、真のおかげが受けられるのは、こういう信者だけだということになる訳です。
佐田さんが頂いておられる日本髪の結いようというのはです、それぞれに一様にやはりここでは朝の御理解の雰囲気の中におれば、一様にそれぞれに髪を結い上げて帰るようなもの、有り難かったで帰るけれどもです。もう帰る道すがらに壊している。御理解だけは有り難かった有り難かったで、いいよるけれども、自分の器量の方の化粧をしようとしない、研こうとしない、改めようとしない。髪だけは奇麗に結うちゃるばってんか、顔にはながずみをひっつけちゃるというのなら、ちょいとおかしいでしょうが。
帰ったなら、ひとつ本気で顔どん洗うてですよ。そして、垢を落とすなら落としてからお化粧のひとつもさせてもらう心がけにならせて頂くところから、おかげ。いわゆる、おかげは一様に渡してある。一様に結い上げられておるということ。さあ、それから先の器量の良しあしで、髪が定まってくる、おかげが定まってくる。それから先は、やはり、神様が不同の扱いをしとんなさるようにです。おかげを受けられる人、受けられない人が決まってくるということ。
ですから、やはり、好き不好きがありますから、やっぱり好いたつと好かんとがあります実際に、けれども皆さんにこうやって聞いて頂いておるこれだけはです。たとえて言うなら、朝の御祈念なら御祈念の時にお話させて頂いておる、これだけはです、あれには少し聞かしょう、あれには余計聞かしょうというのは、いっちょんなかということ。一視同仁である。
ですから、頂く方の側がです、それを生かすか、生かさないか。おかげにするかしないか。お徳にするか、お徳にしないかということは、それから決まることである。ここの御理解を頂くたんびに、私の心の中にも、やはり、猛反省させて頂きます。取次者として、本当に不同の扱いをするこつがあっちゃあならんという心を、やはり押さえたり、改まったりしてまいります。これは私が頂く事。けれども、皆さんが、ここを頂かれる場合はです、親先生はやはり、一様に祈っておって下さる。一様におかげは下さってあるんだと。それをいよいよ、自分のものにする為に、親先生に接近しよう。いわゆる、私の信心に接近しようということなんです。その接近してくるということは、研くことであり、改まることである。または、それを上から奇麗に化粧することである。
そういうことを教えて頂くのですから、そこからいよいよ、天地の親神様も、確かに不同の扱いをなさるのです。やはり、信者を信者氏子とお呼びになる。その信者の中にあってもです。また、信者の中の信者だと、自負出来る。信者の中の信者であるという信心をひとつ頂いて、本当に神様がえこひいきしござると思われる位のおかげをです、各々の上に頂きたいと思います。
そこで、自分が接近しよる具合。金光様の周囲、たとえば私の周囲をです、生霊がぐるぐる回っているに違いない。ここのお庭は立派というて、お庭の回りをぐるぐる回っておるのがおるかもしれん。それこそ、お供えもの、お賽銭箱の回りをぐるぐる回っておるのがおるかもしれん。それではおかげが受けられません、とおっしゃるのですから。 やはり、私の信心に接近してくる信心。そこから自ずと形の事も表れてくるでしょう。豆腐一丁作ったっちゃ、さあ、親先生にという心が湧いてくるでしょう。そこへです、私はたたかれるかもしれんけれども、やはり、そばへ寄って来れば頭のひとつも撫でられるおかげも受けられると思うのです。今日の九十四節から、そういうようなところを分かって頂きたいと思うのですね。 どうぞ。